医師会について
歴史・沿革
戦前より旧三原郡医師会は先輩医師たちによって組織されていましたが、戦後すぐに新制医師会を組織し、地域医療の充実に努力してきました。病院も開院し、会員も若い会員がだんだん増えてきて、和やかな中にも若い熱気があふれています。
南あわじ市医師会(旧三原郡医師会)の沿革
- 明治18年
- 三原郡の医師数は37人であった。現存する資料によると三原郡医師会は大正12年3月5日設立とある。
- 大正6年度
- 三原郡郡勢要覧に、三原郡医師会、会員31人、6年度予算135円の記載があり、又その他の資料より設立がそれ以前にもある事が推定される。
- 昭和17年
- 2月、国民医療法が発布され、医師会は官制医師会となり、県医師会に直属し、兵庫県医師会三原郡支部となった。当時の医師会は、戦時態勢のもとに運営され、医薬品の配給、救護活動等が行われた。
- 昭和22年
- 11月1日に現在の社団法人三原郡医師会が設立された。当時会員数38名、会長土井一二であった。
- 昭和26年
- 土井一二会長に次いで秦俊章が2代目会長となり、3代目島野義房、4代目橋田英彦、5代目河崎与一郎、6代目富本幾文、と続き大森弘之現会長は7代目である。3代目島野義房会長は、三原郡医師会長26年、県医師会理事10年、その他要職歴任、昭和53年4月29日に勲5等双光旭日章を受章された。新制医師会発足当初は終戦直後であり、物資不足の時代で、当時の医師会長は医薬品の会員への配給が大きな仕事であった。又紙も不足、紙質も悪く、会員への通知も自家用に印刷された用紙の裏に謄写版で印刷されたものであった。しかし日常診療はもとより予防接種など地域住民への保健活動も行っていた。当時は伝染病も多く、伝染病が発生すると各町村の隔離病舎(避病舎)に患者を収容し、会員が出向き診療に従事した。
- 昭和31年
- 県立淡路病院が洲本に開設され、同時に淡路広域行政(伝染病)事務組合が設立され、この伝染病棟に収容されるようになった。
- 昭和32年
- 4月、郡医師会互助会設立。
- 昭和37年
- 4月、緊急救助隊の編成。
- 昭和43年
- 6月に郡内一円(主として南淡町、緑町)に赤痢が集団発生、患者数198名となり、赤痢対策本部を設置、南淡町は北阿万保育所を、緑町は広田中学校校舎を臨時隔離病舎として患者を収容、三原郡医師会会員が交替でその治療にあたった。
- 昭和53年
- 昭和40年代に休日・夜間における医療機関の休診が一般化して来た。そのため地域住民の要望に対応し、昭和53年4月1日に、賀集八幡に三原郡休日診療所を開設、三原郡医師会会員が交替で診療に従事する事となる。
- 昭和54年
- 6月三原郡健康大学講座開講、会員が講師となり、地域住民の健康教育を行うことになり、以来毎年実施している。
- 昭和55年
- 学童心臓検健診開始、毎年継続実施。医師会設立当初より理事会の開催は不定期であったが、昭和55年代になって毎月1回定例理事会を開催するようになる。
- 昭和57年
- 6月に淡路地域医療センター医師会病院を設立すべく、淡路医師会が発足、当時の三原郡医師会長河崎与一郎が初代会長となり、医師会病院の設立に尽力、以来3年有半、先進医師会病院の見学、シス研医療実体調査の依頼など、又当時の中田富士男県医師会長も来島その設克に協力されたが、実現に至らなかった。
- 昭和63年
- 医師会事務所は当初より会長宅におかれていた。そのため会長の交替毎に事務所が変っていた。そこで昭和63年7月1日に現在の三原郡医師会事務所を開設、常勤職員をおくこととなった。 昭和60年代に100床クラスの民間病院5個所開設され郡内は勿論近辺の地域の医療に頁献するようになる。 昭和63年より会員の生涯教育の一環として三原郡医師会臨床談話会を発足、現在も引き続き行っている。
- 平成17年
- 市町村合併により社団法人南あわじ市医師会に名称変更。
- 平成23年
- 4月、公益法人改革により一般社団法人南あわじ市医師会に名称変更。
医師会の活動は前記の外に乳幼児、学童、生徒の健診、予防注射、住民検診とその事後指導、各種ガン検診等がある。
南あわじ市医師会の伝統は“和” であり、歴代会長以下会員一致協力、加えて近年世代交替が進み、活力が生じ、将来が期待される。